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フェリクス・ マンガ・ ヤシェンスキ
フェリクス・ ヤシェンスキは1861年に裕福な大地主の家に生まれた。彼は類まれな知性と芸術的・文学的才能の持ち主であったが、その天賦の才は大学で学業を修めたこと、そして、膨大、多彩なる読書を経験したことによって、ますます開花されていった。青年ヤシェンスキは、1880年代、学業に更に磨きをかけるためパリに赴いたが、そこで初めて日本美術と出会うことになる。ヨーロッパの芸術の都といわれた当時のパリでは、日本美術は芸術家らの興味を刺激し、彼らを魅了し、その創作活動におけるインスピレーションの源となっていた。これがいわゆるジャポニズムといわれる19世紀後半にパリに始まった芸術運動であるが、それは次第に他の西欧諸国にも広まっていった。
ヤシェンスキは、最新の芸術動向に常に敏感であったが、彼もやはり日本美術の虜となり、パリのオークションや骨董品店で、日本伝統工芸品の買い付けを始めた。収集品は、浮世絵、漆器に始まり、青銅器、陶磁器、布製品、日本画、象牙細工、武器にまで及んだ。1888年にポーランドに戻った後も、ヤシェンスキは引き続き友人や代理業者の仲介で、パリやベルリン、また日本からの買い付けを行っている。彼にとって日本は憧れの国であったが、本人が日本を訪れたことは一度もなかった。
ヤシェンスキは、彼のコレクションの中でも特に熱愛していた『北斎漫画』の“Manga”という単語のスペルを少し変えた“Manggha”という言葉を自らのペンネームとして使用していた。ヤシェンスキは日本美術品を収集するだけにはとどまらず、日本美術に対する深い愛情をもって、評論を随所で発表するなどして日本美術を紹介し広めていく活動を活発に行い、ポーランドにおける日本伝統文化紹介の先駆的な役割を果たした。さらにこのコレクションは、20世紀初頭に活躍したポーランドの最も優れた画家、版画家らの創作活動のインスピレーションの源となることもしばしばであった。
外国からポーランドに帰国したヤシェンスキの胸中には、自らのコレクションを、祖国に寄贈したいという考えが芽生え始めた。この崇高な志ともいえる彼の夢が実現したのは1920年のことであり、この年に全てのヤシェンスキコレクションが、クラクフ国立博物館に寄贈されたのである。
ヤシェンスキのコレクションを総括的に見てみると、日本美術のみではなく、日本の日常生活などを含めた総合的な日本文化を、できる限り多角的に紹介したいという彼の意図を汲み取ることができる。
ヤシェンスキは、国立博物館の組織の中に、自分の名を記念した日本美術を展示する別館を創設したいと希望していた。しかし、その彼の夢は、何十年もの間果たされぬままであった。寄贈契約書作成の後でさえも、コレクションは9年間も彼の住まいに保管されたままとなっていた。彼の死後1929年に、コレクションのごく一部分が国立博物館内で短期間展示されたことがあった。第二次世界大戦中には、織物会館(Sukiennice)で展示が行われた。(若き日のアンジェイ ・ワイダがこの展覧会を訪れている。)戦後は、展示する場所がないとの理由で、国立博物館の倉庫に保管されることになった。それを閲覧することができたのは研究者のみであり、時々ポーランド国内外において一時的に展示されたことがあるだけであった。
1994年以降、日本美術技術センター建設によって、ヤシェンスキコレクションはようやく展常設展示する場所ができたのである。
ゾフィア・ アルベル
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