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京都クラクフ基金の活動年譜

京都クラクフ基金の活動年譜

 

1987年春

 

アンジェイ・ワイダは京都賞を受賞し、稲盛財団から賞金を授与されることになった。ワイダ監督の受賞以前には、フランスの作曲家オリヴィア・メシアン、ヴィトルド・ルトスワフスキ、黒澤明監督が受賞している。

 

 

1987年7月

 

週刊紙ポフシェフネに、アンジェイ・ワイダ監督のインタヴューが掲載された。そこで監督は、京都賞の賞金を日本美術技術センターの建設にあてようとする意図を表明した。建築家磯崎新氏がセンターの設計を行うこととなった。

 

 

1987年9月

 

日本の美術センターをクラクフに建設する提言はクラクフ市の当事者およびクラクフ国立美術館極東芸術部門の学芸員ゾフィア・アルベル女史はじめ大勢の国立美術館クラクフ館関係者に大きな興味と喜びを呼び起こした。

 

満足と協力の意思を示した彼らがアンジェイ・ワイダ監督に宛てた手紙

 

1987年 9月24日

 

Ki  IV-523-09-24/87

 

アンジェイ ワイダ監督

 

敬愛なる氏へ

 

我々の市民と街を訪れる多くの旅行者に、その伝統文化と芸術を親しませる日本美術博物館を建設するという貴方の提案を心から喜んで受理いたします。市政の立場として未来の日本美術博物館の市内の建設予定地確保の保障義務証明書を同封いたします。同時に、貴重なる貴方のこの件に関する決断とご指導に対する感謝の意を表します。

 

敬意を表して

 

タデウシュ・サラヴァ学士

 

クラクフ国立博物館長からアンジェイ ワイダへの手紙

 

クラクフ 1987年 9月21日

 

敬愛なるアンジェイ ワイダ氏

 

クラクフ国立博物館の日本コレクションの展示のために、京都賞の賞金を寄付されようという貴方の提案を大変有難く、喜んで受理いたしました。私共の様々の努力にも拘らずあいにく今までコレクションの常設展示は不可能でした。氏の提案は疑う余地なく世界でも最も高貴な素晴らしいものです。極東美術に関しての当時の第一人者フェリックス ヤシェンスキーをはじめオットン コヴァルスキ、エドヴァルド ゴルトスタイン、エラズム バロンチ、ユリアン オヴァックなどの怱々たるコレクターの寄贈によって集まったもの、その他博物館が購買した物を合わせて10万品目に及ぶ日本の第一級の木版画、油彩画、鎧兜、瀬戸物、エナメル細工などが倉庫に保管されたまま日の目を見ず、機会があればごく一部のコレクションだけが展示される、という状態です。これらの収集品に相応しい展示場を建設することによって収集品を全て展示し、更にはかなり以前から地元の芸術家達を魅了してやまない日本文化を私達の街に広く紹介出来るようになることと思います。

氏のリーダーシップはポーランドと日本との交友関係におけると同様に私達の街に対しても貴重なものであります。重ね重ね国立博物館代表として、また、一個人としても心からお礼を申し上げますと共に、近い将来子の素晴らしいアイデアが実現されるのを確信しておりますことをお伝え申し上げます。

 

敬意を表して

 

館長 カジミェシュ・ノヴァツキ

 

 

1987年10月

 

クシシュトフ  インガルデンは磯崎新がセンターの設計の仕事を引き受けることに合意した由を伝える。アンジェイ ワイダは大変な喜びと共に第一級の建築の巨匠の好意を受け入れた。

 

 

1987年11月1日

 

京都にてアンジェイ ワイダの京都賞授賞式があり、ワイダ監督によってクラクフ日本美術技術センターの建設に賞金全額を投資する意図が公式発表された。

 

 

1987年11月の京都賞授与に際してアンジェイ ワイダの感謝の言葉

 

会長、貴方の手から京都賞を受け取りながら、昔のある出来事を思い出しています。戦時中、ドイツ軍の占領下のクラクフで、覚えている限り一番惨めで苦しい時期に出くわした変わった出来事なのですが、日本美術展示会が行われたのです。今までに見たこともない明瞭さ、光、秩序と調和、これこそ私にとって初めての本物の芸術との出会いでした。当時私は19歳の若僧で、画家になることを夢見ていました。

人生の内で一番強靭なものは若いときに経験する感覚や感動です。それ故に今日、会長自らの手から京都賞を受け取りながら、初めて日本の歴史的美術品の傑作の数々を眺めて感動したように、私以外にも幅広く他の人たちが同じように傑作品と出会い、感動して幸福であって欲しいと思うのです。

日本の熱心な芸術愛好家の方々が私の意図を汲み取ってクラクフで80年にもわたってその美しさを世界に現せず、日の目を見るのを待っている収集品の数々を展示するのに相応しい美術館の建設に協賛していただけるのを期待しながら、先ほど受け取った京都賞はその全額をクラクフ国立美術館の建設資金とさせて頂くことにします。京都賞によって私はこれから京都の姉妹都市になる予定のクラクフの街に美しい日本風の建物が建てられるのを心に描くことが出来、嬉しい気分です。その建物で1944年、私が生まれて初めて日本の芸術に触れた時と同じように、若い画家や詩人、映画人達が訪れ、彼らの芸術や審美観を形作られ、様々な影響を与えられたりするのです。今日受け取った京都賞は日本とポーランドの間のみならず、クラクフ日本技術美術センター設立というアイデアによってこの20世紀と来る21世紀の架け橋にもなるのです。

 

 

日本滞在中にアンジェイ ワイダは初めて磯崎新氏と会った。その初顔合わせには東京岩波ホール総支配人高野悦子氏が参加、未来のセンター建設のための基金集めを助ける提案をした。

 

 

1987年12月

 

後に京都クラクフ基金の会員となるアンジェイ ワイダ、クリスティーナ ザクファトヴィチ ワイダ夫人、カジミェシュ ノヴァツキ国立美術館クラクフ館館長、ヤン ノヴァク クラクフ市長補佐、クリスティーナ モレック クラクフ市役所内文化芸術課課長、マレック ロストヴォロフスキ博士、ゾフィア アルベロヴァ博士、クシシュトフ インガルデン博士他が一堂に会する。

 

 

1988年2月

 

ポーランド日本協会理事会の会合でアンジェイ ワイダとクリスティーナ ザクファトヴィチが名誉会員となる。

 

 

1988年3月12日

 

シュチェパンスキ広場のスタレ テアトル(古劇場)においてアンジェイ ワイダとクリスティーナ ザクファトヴィチを発起人とし、クラクフに本拠地を置く京都クラクフ基金がクラクフの国家公証人であるアレクサンドラ マルシャウェック博士によって公式に機関として発足及び登録される。その書類には「基金はクラクフ国立博物館所蔵の日本の美術品のコレクションのための建築物の建設とその設備を整備することを目的とする」と明記されている。基金の所有財産は創立者から引き渡される34万米ドルである。この書類には創立者と公証人によって確認のサインが記入された。

 

 

1988年8月24日

 

文化芸術庁長、アレクサンデル クラフチュク教授が基金の発足と規約を確認し、承認のサインを記入した。

 

 

1988年8月

 

クラクフ市当局は日本芸術センターに相応しい建設用地候補を提供した。様々の調査の後に厳選された候補地は

・プーシキン通りのルダヴァ川沿い (ul. Puszkina) 現フォシャ通り (ul. Focha)

・ロンド モギルスキ、ルビチ通りとボタニチナ通りの交差点付近 (Rondo Mogilski, Lubicz, Botaniczna)

・コノプニツカ通り32番 (ul. Konopnickiej 32)

 

いずれも市の中心に接しているのでロケーションとして優れたものであるが、磯崎新氏がクラクフ滞在中に決断を下したコノプニツカ32番が採択された。

 

 

磯崎新氏のコメント

 

ポーランドの映画監督アンジェイ ワイダ氏が1987年に京都賞を受賞され、その賞金はクラクフの日本美術センター建設に充てるつもりだと発表されました。フェリックス  ヤシェンスキのコレクションを公開展示でき、同時にポーランドに日本の現代文化を紹介する建物を創る予定だ、と聞きました。共通の友人を介してアンジェイ ワイダ氏のプロジェクトに参加し、具体的な建築設計を引き受けることにしました。

クラクフ市当局から幾つかの候補地が提示され、その候補地を自分の目で確かめてから街の中心でヴァヴェル城近接の土地を選び、認可されました。

今日ではポーランドに建築の新素材があちこちで導入されているようですが、より正当な技術的な問題の解決策として入手も建築加工も容易なオーソドックスな素材を用い、展示会場はじめ内装にはハイテクシステムや電子制御などの最新のテクノロジーを駆使することにしました。

建物は大まかには伝統的なレンガを使った工法で、鉄筋コンクリートを用いて補強されています。屋根は木造で必要最小限の接合金具で接合され、波打つ屋根の表面は亜鉛版で覆われています。建物はヴィスワ川沿いの遊歩道に接して建てられており、広くスペースをとったテラスから対岸のヴァヴェル城の圧倒的な外観と古い城下町のたたずまいを見渡すことが出来ます。川に面する壁は最大限にガラス張りとし、交通量の多いコノプニツカ通り側は出入り口と明り取り窓を除くと周囲から遮断されています。建築学的なモティーフは日本の典型的な表面の作り方によらず、全体の構成も明らかにオリジナリティーを持つものです。外壁は波立ち、それに伴って窓も曲線を描き、屋根も緩やかなサインカーブを湛え、双曲線で構成されます。

おおらかで柔和な曲線を描いたこの彫刻的な全体の構築が日本を連想させる効果を生み出すことを期待しております。

 

 

1989年1月14日

 

ワルシャワ プラガ地方裁判所 第七課 登録部 バルバラ ブリル委員長

 

アンジェイ ワイダとクリスティーナ ザクファトヴィチの京都クラクフ基金の基金登録の決定内容

この書類による基金の幹部構成役員は次の通りである。

アンジェイ ワイダ

クリスティーナ ザクファトヴィチ

カジミェシュ  ノヴァツキ -幹部委員長

ヤン  ノヴァック -クラクフ市長補佐

クリスティーナ  モレック -クラクフ市役所文化部長

ヤン  ブウォンスキ

スタニスワフ  ロレンツ

リシャルド  オトレンバ

マレック  ロストフォロフスキ

ズジスワフ  ジグルスキ

ゾフィア  アルベロヴァ -幹部書記

基金の委員長は規定により博物館長をも兼務する

 

 

1990年6月

 

西武財団は日本(東京、大阪、札幌)で、日本美術の愛好家でコレクター、そしてその宣伝者としてポーランドで第一のパイオニア的存在であるフェリックス ヤシェンスキのコレクションの展示会を企画開催し、それによって基金のアイデアが幅広く大勢の人に伝えられた。日本側では白石氏が企画を担当して西武堤社長を援助した。展示会はゾフィア アルベロヴァ率いるクラクフ国立博物館極東芸術部が準備した。展示会のオープニングは高野悦子氏と在日ポーランド大使によって行われ、基金からはクシシュトフ インガルデンが代表として参加した。

 

 

1990年6月

 

クシシュトフ インガルデンが3ヶ国語(ポーランド語、英語、日本語)による、未来のセンターの各機能と活動内容を説明し、クラクフ国立博物館の日本美術品のコレクションの簡単な案内をも含むパンフレットを作成した。

 

 

1990年秋

 

磯崎新氏は日本からセンター設計図の草案を送付した。

 

 

1991年7月

 

ポーランド日本協会のクラクフ支部がクシシュトフ インガルデンと共同でクラクフ国立博物館において、東京の磯崎新氏の工房で作られたセンターの縮小模型の最初の披露会が行われた。

 

 

1991年11月26日

 

ポーランド日本協会主催の日本文化の日で、織物会館のギャラリ-においてセンターの設計プロジェクトが公開された。タデウシュ  フルシチツキ氏が開会の挨拶を述べ、設計プロジェクトはクシシュトフ  インガルデンによって紹介、説明された。

 

 

1991年11月28日

 

クラクフ市役所の建築課は、日本美術技術センターの投資、建設地がコノプニツカ通り32番に確定する決議を下した。(No.134/91)

 

 

1992年10月

 

募金活動と基金の宣伝も兼ねてアンジェイ ワイダとクリスティーナ ザクファトヴィチはアンジェイ ワイダ映画祭参加のため日本へと旅立った。公共の場での募金活動は全て高野悦子氏の企画と、個人でも具体的な資金援助を惜しまなかった松崎明組合長率いるJR東日本労働組合の参加支援によって行われ、広く東京、京都、大阪の3都市に及んだ。この旅行にはクシシュトフ インガルデンも同行、同時期に磯崎新氏の作業室で実際の設計作業を開始した。この力では100万米ドルに相当する収穫があった。

 

 

1992年10月

 

具体的にセンター設計が始められる。最初の1ヶ月は基本コンセプトが練られた東京の磯崎新氏の事務所で行われた。細部に及ぶスケッチはクラクフのJet Atelierで東京事務所との連絡を密にしながら進められた。日本側のワーク コーディネーションは水野!?Ghen氏が担当した。

 

 

1992年12月

 

山下新太郎在ポーランド日本大使の任期終了に際し、大使自らの意志で進んで貴重な協力、援助を基金に対して施したことへの感謝の印としてワルシャワ王宮で行われた送別会でヤン シャンツェンバッハの大画「軍艦」を大使に贈呈した。

 

 

1993年4月

 

書類に基づいて第1段階は入念にまとめ上げられ、続いてセンター建設事業が国際競売に公示された。

 

 

1993年春

 

基金の名誉会員による会合、文化芸術庁大臣イェジィ グラル、外務大臣クシシュトフ  スクビシェフスキ、クラクフ県知事タデウシュ ピェカシュと在ポーランド日本大使兵藤長雄が参加。

 

 

1993年5月28日

 

芦村庸介神主とスタニスワフ マウィシャック司教を招いて地鎮祭を行い、着工証明書が日本美術技術センターの土台の中に埋蔵された。兵藤長雄大使夫妻、磯崎新夫妻、高野悦子、大竹洋子、松崎明JR東日本労働組合長、ユゼフ ラソタ クラクフ市長、タデウシュ ピェカシュ クラクフ県知事、クラクフ圏の上下院議員、クラクフ外務員、各学界、芸術、文化界の著名人他が参加した。地鎮祭での挨拶は基金会長タデウシュ フルシチツキ、センター創設者アンジェイ ワイダ、兵藤長雄日本大使、タデウシュ ピェカシュ クラクフ県知事の順で行われた。同じ日にクラクフ国立博物館本館において磯崎新氏自身の紹介、案内よる作品と模型の展示会のオープニングが開催された。

 

 

1993年6月6日

 

日本美術技術センターの外郭建設は1993年6月25日付けで竹中建設ヨーロッパGMBHに委託されることに決定し、竹中工務店社長!?岡田まさのり?とポーランド側からは創設者アンジェイ ワイダ、基金会長タデウシュ フルシチツキと投資代理を受け持つTRAM社の重役ヘンリク トレンバチュとが署名した。

 

 

1993年7月2日

 

本格的に建設開始。建物はヴィスワ川に面するかつての洲であった場所に位置する。

 

 

1994年4月15日

 

国家・市政当局と兵藤長雄日本大使夫妻が参加する中、センター本屋で建設第1段階終了式典(日本ではさしずめ柱立て、ポーランド語で「ヴィエハ」と呼ばれる)が行われる。基金会長でクラクフ国立博物館館長のタデウシュ フルシチツキが歓迎の挨拶をし、竹中工務店の局長!?豊田こうじ?が建設行程の説明をした。アンジェイ ワイダは施行作業員の全員に対して心からの感謝の言葉を述べ、兵藤長雄大使が挨拶を締めくくった。センターの天井には2つのヴィエハ(小枝の束)、ポーランドの伝統的なものと、もう一つは日本の御幣が一緒に備え付けられ、共に工事の更なる順調を祈る。クシシュトフ インガルデンは招待客を連れて未来のセンターを案内した。式典は竹中工務店からの豪華なもてなしで幕を閉じた。

 

 

1994年11月30日

 

日本美術技術センター開館式

 

創設者アンジェイ ワイダ、クリスティーナ ザクファトヴィチ、設計者の磯崎新、日本での募金活動を企画した東京岩波ホール総支配人の高野悦子、在ポーランド日本大使兵藤長雄他が挨拶を行う。

 

ポーランドと日本は1万キロの距離がある以上に何かで隔てられています。ポーランドは勢力を誇るヨーロッパの近隣諸国に長いこと支配されていたし、現在でも尚幾年にもわたりポーランド国家としての独立と世界各国同様の国家としての市民権を得ようと戦っています。日本はアジアの中でも特殊な、高次元の文化を持つ、その素晴らしい島国に他国の異文化の強要の脅威から免れ、19世紀中ごろまで封建制度を保った、将軍や武士の社会でした。その後日本は現在に至る過去150年の間に文明開化と多大な犠牲を伴った戦争を経て、最先端の技術を開発し、経済大国として変容したのですが、その一方では誠実さを重んじる伝統や習慣が日本芸術や言語、文学や書道や演劇の世界を通して明確に、或いはまた潜在的に残っているのです。日本人は時々ポーランドと日本が広大な林で仕切られた隣国同士である、といいます。ポーランド人は情熱的にポーランドが第二の日本国と呼ばれるほど発展することを夢見ました。両国間には歴史的にも文明の観点から見ても大きな隔たりがあり、何がこの二つの異世界を結合させ得るか、と考えてみるとそう簡単には見つかるものではないでしょう。クラクフ日本文化センターの創立者にとってはその答は明確でした。芸術を介するのです。100年も前に先見の明を持った大作家、鋭敏な評論家、素晴らしい知識人でコレクターであったフェリックス ヤシェンスキはその答を見抜いており、クラクフに日本の美術を熱心に紹介し、ポーランドの芸術家達にその高品位の美学を伝えたのでした。驚くほど豊富なさまざまのヤシェンスキの日本コレクションは1926年の彼の死後クラクフの国立美術館に収納され、期間展示さえも殆ど行われぬままに年月が流れました。今新しい美術館、これも国立美術館の経営なのですがコレクションは学術的規準を遵守する整った環境でそれらの価値に相応しい常設展示場が出来たわけです。センターの設計を担当してくださった、世界的名声を誇る大建築家の磯崎新氏、私共の基金の日本支部の設立に協力し、センター実現に向けて資金を準備してくださった高野悦子氏、この私たちの敬愛なる友人たちの貢献は計り知れないほど大きなものであります。

今日の日本は魅力あふれる美術品だけでなく、世界最先端の技術を未来へとリードする国でもあります。例えば、自動車、電子機器、情報科学、コンピューター、写真、フィルム、テレビ、ヴィデオ等の映像機器他様々の日本製品が世界中で、勿論ポーランドでもその最高品質を賞賛され、使用されているのです。

これこそ私たちのこのセンターで、古来の日本の美術品のみならず現代日本の技術分野の紹介をも行おうという最たる理由なのです。美術と技術アイデアとの遭遇はごく自然なものとして受け取れます。疑う余地もなく日本刀に見る冶金術や漆器、象牙加工、絹織物、絵画や書道の正確無比な筆使い、木版の彫刻刀さばきなどはその技術の確かさという点で現代技術による日本の工業製品、例えばトヨタ、日産などの自動車や、ソニー、キャノン、ニコン等の電子機器や映像機器ほかさまざまなものとして製品化される過程において脈々と受け継がれているのです。コレクションの常設展示と最新技術の期間展示の他、センターには200人収納可能な多目的ホールを備えており、試写会、演劇鑑賞、コンサート、他国語会議などに対応し、それぞれに必要な設備をも取り揃えてあります。小中学校はじめ、クラクフの各種学校の社会見学などで最初の日本体験が出来る場所としても機能できれば良い、と私達一同は思っています。ポーランド国内各地から、そして外国から訪れる旅行客にも、今日の日本を、あたかも伝統と現代性の2つの翼を持った大きな鳥のように21世紀の未来へと羽ばたく日本を見ていただきたく思います。

 

アンジェイ ワイダ、クリスティーナ ザクファトヴィチ

 

 

ヤシェンスキのコレクションの中心となるものは日本で作られたものであることが明白かもしれなませんが、コレクションの呼び名を日本美術、とのみ限定してしまうこともなかろう、と思うのです。何故か。それは日本の美術技術センターの建設に際して実に多くの人々が動員されることになった理由なのですが、このコレクションの膨大な作品群が多くの人々に大きな感動を与えたものであること、更にセンター創立の歴史を振り返ってみれば判るのですが、コレクションは日本美術としての小さな枠に入りきることが出来ず、世界の美術として成立しているのです。そのことと同様に製作者が日本で生きていたこと、収集家がポーランドに住んでいたこと、そして現代のポーランドの芸術家と多くの匿名の日本人もいろいろな形で直接間接を問わずこの事業に携わっていることもその理由として挙げることができます。クラクフのアンジェイ ワイダ夫妻を訪れ、一緒にセンター建設用の候補地を視察することから始まりました。設計の仕事は日本とクラクフで同時に並行して進められましたが、むやみに日本的であることを強調するようなデザインは避けるように努力したことは述べておこうと思います。ヴァヴェル城の小高い丘から川を隔てて対岸に丁度こちらのテラスから城が見えるような場所に位置し、従ってこの土地の古くからの雰囲気を損なわぬよう熟考し、ヴィスワ川の流れにあたかも呼応するかような、川の流れに従った形を用いることにしました。川の緩やかな湾曲がセンターの屋根のデザインをおのずから導き出したのです。外壁はポーランドの砂岩を用いました。内装では伝統に従い、地元のレンガ積みの技術を生かして木材とレンガによる工法を採りました。ヤシェンスキのコレクションと同じように日本美術の枠を突破して欲しいと切望する結果、この建物はポーランドの伝統に基づく技術を多分に採り入れてあるのです。

この事業は多くの有志の人々の協力と勿論ポーランドと日本両国からの支援があってこそ成り立ったのです。しかしたとえ彼らの直接の参加が無かったとしても世界的文化レヴェルに達するものでなくてはならないものでもあるのです。そしてそこまで事業が成長、発展するのはそれが完成する場所に本当に深く根を下ろしたものを生み出せた時だけなのです。当日本文化・技術センターはこの切なる願いを以って設計、建築されたものであり、先ほどのような評価が得られることを確信を持って期待しております。

 

磯崎新

 

 

「クラクフ日本美術技術センター」交響曲

 

仮にクラクフ日本美術技術センターをある種の音楽にたとえるとすれば、4楽章から成る交響曲が相応しいと思います。

 

第1楽章 フェリックス ヤシェンスキ。日本の美術と出会い、惚れ込んだ彼は収集

に暇もありません。

 

第2楽章 クラクフ国立美術館の従業員達。二度の世界大戦の暗黒の空の下、ヤシ

ェンスキのコレクションを守り続けます。

 

第3楽章 アンジェイ ワイダ。19歳にして出逢った日本美術に感銘を受け、映画監

督になります。その後京都賞受賞という見事な成功を収めた時、その賞

金の全額をセンター建設に投資することを決意し、奥様のクリスティ

ーナと共に実現に向けての活動を開始します。

 

そしていよいよ、

第4楽章 日本中での資金集めの宣伝活動です。日本、ポーランド両国政府の協力

を得て、ワイダ監督夫妻の自らの呼びかけに応えてさまざまの映画ファ

ンやポーランドを愛する人々凡そ延べ13万8千人からの寄付金が集ま

りました。

 

1994年11月30日、遂にクラクフ日本美術技術センターのオープニングにこぎつける事になりました。これからポーランドと日本の友好の交響曲はクラクフの空の下、美しく、また見事なハーモニーを奏でることと存じます。その時が楽しみで胸が一杯です。

 

高野悦子

 

 

敬愛なるポーランド、日本両国の皆様、

 

ポーランドのかつての首都、美しいマウォポルスキ地方の中心地であるクラクフにおいて、日本とポーランドの恒久的な友好関係の象徴である日本美術技術センターの開館式が行われることは、私達両国間の関係において新しい歴史を繰り広げる今世紀最大の出来事であります。日本美術の見事なコレクションの常設展示の場所としてと同様、その他いろいろな種類の異なった活動も、私達両国が文化的にお互いに協力し合い、実現することが出来るようになるのは間違いありません。センターの実現こそはポーランドと日本の両国からの本当に多くの人たちの寄せた善意と強い意志の結晶であり、両国間の友情を象徴するものです。アンジェイ ワイダとクリスティーナ ザクファトヴィチ夫妻、このお二人が京都クラクフ基金の創設者であり、京都賞で得た賞金の全額を基金に投資したことから始まり、本当に多くの人が無償で監督夫妻の熱狂に応え、センター建設のための資金集めに協力を惜しまなかったのです。その内でも八尋俊邦氏(日本ポーランド共同経済委員会)、高野悦子氏(岩波ホール総支配人)、そして松崎明氏(JR東日本労組組合長)はこの事業に際して特に個人で膨大な寄付金による協力をされたことを申し上げておきます。そして世界的にも成功されて有名な建築家磯崎新氏にこのセンターの設計を無償で手掛けていただけたことはこのセンターにとってこの上なく幸運なことでした。その上平山郁夫東京芸大学長は美術品の修復作業への協力を提案してくださいました。また、両国政府は私たちの熱狂振りを汲み取り、応援してくれました。クラクフ県庁からはヴィスワ川をはさんだヴァヴェル城の対岸、という最も美しい場所をセンターに提供して頂きました。日本政府からも同様に、建設に必要な費用の内かなりの額の支給を受けました。今日まで本当に大勢の方の協力があったからこそこの開館式にこぎつけることが出来たのです。あいにく協力してくださった方のお名前を全てここで紹介することは出来ませんが、せめてこの場を借りて心からお礼を申し上げたいと存じます。

日本美術に魅了されたフェリックス ヤシェンスキは自分の全財産をはたいて美術品を収集し、クラクフに貴重な文化財を残しました。これらのコレクションは年月の経過と共にその保管の困難さを増し、幾度もコレクションを手放さなくてはならない危険にさらされたことも存じ上げております。後々の世代が戦後のクラクフ国立美術館の苦労と、それからまずこのコレクションを守り通したゾフィア アルベロヴァ女史の功績とを理解し、正当に評価することに必ずやなることでしょう。100年にも及ぶ年月の後、フェリックス ヤシェンスキが生涯を通じて続けた偉業の最終過程、つまり日本美術品をポーランドに紹介する夢の実現がなされるのです。ヤシェンスキの考えを踏襲し、次の世代やまたこれからはるかに先の世代にも残されるセンターを今の私達が創り上げた事を、私達は名誉なことと思います。私達両国の人ばかりでなく、世界中からも人々がここを訪れること、そしてセンターがポーランド国内は勿論のこと、中央ヨーロッパ全域の日本文化の拠点地となるように願わずにいられません。

日本とポーランドの両国の皆さんに、ポーランドの習慣に則したご挨拶を申し上げ、祝辞といたします。

„Życzę Państwu wszystkiego najlepszego.” (「皆様、おめでとうございます!」)

 

兵藤長雄

 

 

 
 
     
     
 

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